「霊は零なり」

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「霊は零なり」

 「解脱」をテーマにざっくばらんなお話会に参加していました。その中で、「解脱ってなんだろう?」という設問から思うことを話し合いましたが、参加者のお一人が「空っぽ」であること発言されたことが妙に腑に落ちました。

 何かを立占する時も自身の心中に「吉であってほしい」「こうあってほしい」…のような思念が入ると出てくる易の卦もはっきりしません。

できるだけ自身の心の中を「空=中庸、ニュートラル」に保つことを心掛けますし、講座等で占う時の心構えとしてもお伝えしています。(とはいえ“無心”を意識するということは、修行を積んだ高僧でも大変難易度が高いですから、占う際の掌中で振るコインの音にに集中するようお勧めしています)

 仏教界で“解脱”となると、大変な修行、苦行を想像いたしますが、「古神道」ではそもそも「解脱」という観念すらない。

 この違いは何だろう…とお話を聞きながら感じたことは、

思念を外側に向けるか、内側に向けるか

のちがいなのではなかろうか…ということです。

 お話会のコーディネーターの方が「外見」のお話をされ、その中で特に男性が「長髪で、ひげを生やす」…それだけで社会通念からはかなり「異端視」されてしまうという指摘がありました。

自身実感(笑)を伴いながらお話を聞いていたのですが、会社員をしていた自分と、今の自分を比べた時に、会社員として「外見」にこだわっていた時代と、「ロン毛、口ひげ」像の今の自分とで比べるとはるかに自由度が違います。

 外見の「美醜」はともかく、「スタイル」「おしゃれ」「センス」などの観念がいつ頃生まれたのかはわかりませんが、少なくとも「外見」という自身の思念を外に発する方にベクトルを重んじてしまうと、そこに「こうあるべき」「こうあらねば」などの観念の執着が生じ、そこに自身を束縛し生きづらくなる面はあると思います。(社会で生活する以上、常識的な外見を維持することは必要ですが)

ベクトルを内に向けてみる

 一方で、自身の思念を「内側」にむけること、「外見」へのこだわりを捨てることで自由度は飛躍的に向上すると思うのです。

 お話会の後半で、「自身を霊體だと意識する」ことが「解脱」の一歩という一定の結論めいた方向性で参加者の意見の一致を見ましたが、「外見」に意識すればそこに「有」の固執が生じ、あるべき自分、人間○○といった定義づけが必要となり、返って自分を束縛します。

 一方で自身の内面に向かって思念を「解放」すれば、肉体は器にすぎず心は自身の内側に広がる無限の宇宙に自由に飛翔する。

すなわちそれが「霊」でありそこに束縛から解放され、「生き甲斐」「生きる喜び」「生成化育」といった、「無に満たされる」という、一見矛盾しながらも「魂=霊魂」の求める本質的な活動が可能となるのではなかろうか…と

 むろん、この世は魂の修行の場でもありますから、ある程度魂への負荷として「外見」といった束縛も必要なのですが、昨今の感染症対策を含め過度の束縛を強いられ、魂の自由を奪われた結果が、痛ましい事件や戦争といった悲惨な結末を招いている…という見方もできると思います。

 この世に生きるすべての人が、自身の内なる心の声、魂の本音に意識を傾ければもっと生きやすくなるでしょうし、もっとこの世はすっきりするでしょう。

 「古神道」の古語で表す「ウラ」は「心」ですから、「うらない(占い)」とは、そうした表に現れない「心の声=魂の声」を表に示すことでもあり、外へ外へ発することを強要されれる現代を生きる人たちに、その思念を少しでも内側に向けるきっかけにもなるでしょう

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