幸福を数値化できるのか?
毎年各国の国民の意識調査として行われる「幸福度ランキング」なる調査が有ります。

日本人の幸福度は「世界ワースト3」、子どもは「ワースト2」…”人並みに”という幸せになれない残念な国民性
多くの国際調査で日本人の幸福度が低いことが指摘されている。拓殖大学教授の佐藤一磨さんが「最近の調査で、幸せな日本人の割合はこの13年で13%も下がっていることがわかった。
また別の調査では大人だけでなく子どもの幸福度も低水準で推移していることがわかっている」という――。
プレジデントオンライン
調査結果は、調査対象国30ヶ国中28位、日本より下位にあるのは韓国とハンガリーという結果に終わっています。

また引用したプレジデントの記事では、子ども、子育てを巡る分野でも日本は低水準にあるということが指摘されています。
■日本は子どもの幸福度も低い
このように他国と比較して日本人は幸せを実感しづらいようなのですが、実はこの傾向は子どもでも同様に確認されています。
2020年にユニセフのリサーチ部門であるイノチェンティ研究所が子どもの幸福度を分析しました。この中で生活満足度が高い子どもの割合や自殺率を用いて、精神的な幸福度の水準を各国で比較しています。
生活満足度に関しては、0から10までの数字で生活全般の満足度を聞いているのですが、この質問に6以上と答えた割合を見ると、日本は調査対象となった国の下から2番目でした(図表4)。大人と同じく、日本の子どもも幸せを実感する割合が低いと言えるでしょう。

総じて日本は全ての調査で下位に甘んじています。
「恋愛・友人関係・自己評価…最下位」
「心の健康、体の健康…最下位」
「自分の見た目、自分の経済状況…最下位」
「仕事・同僚・自由に使える時間…最下位」
あげればキリがないぐらい、目を覆うよう惨々たる順位のオンパレードです。

日本と肩を並べるように、低ランクであるのは韓国とハンガリー。
共通するのは「学歴社会」であるということです。
特に韓国は日本以上の学歴社会であり、高学歴の卒業者でなければ大企業や国家公務員などの就職は望めず、中,低学歴の卒業者は極めて条件の悪い中小企業や、低賃金の就職先しか仕事が無い、そのため大学受験のために、同年代と熾烈な競争が繰り広げられ、またエリートとして社会に出た後も出世,ポストを巡り激しく競争が繰り広げられているようです。
そんな韓国では、競争から脱落した若者、社会や人生への希望や活力を見失った世代を「N放世代」と呼称しています。


すべてを諦めて生きる「N放世代」。韓国の青年たちの過酷な生活に迫る
すべてを諦めて生きる「N放世代」
韓国の青年世代を指す流行語に、「N放世代」という自嘲的な言葉がある。「すべて」を表す不定数の「N」に、「あきらめる」という韓国語の頭文字である「放」を合成した「N放世代」は、厳しい経済状況のため、すべてをあきらめて生きる世代という意味だ。
恋愛、結婚、出産をあきらめる「三放世代」という造語が誕生したのが2011年で、その後、青年失業率の増加と非正規労働者の増加がマスコミで大々的に報じられるようになった2015年頃から、流行語として盛んに使われるようになった。
以降、三放に加えて就職やマイホームもあきらめる「五放世代」、さらに人間関係や夢までもあきらめざるを得ない「七放世代」を経て、今や人生のすべてをあきらめたまま生きる「N放世代」へと進化したのだ。
現代メディア
ハンガリーの実情は、権威的なオルバン政権が長期に渡って継続している社会の閉塞感もあるかも知れませんが、隣国の韓国の実情は、日本の若者たちの近未来を表しているようです。
ただし、このニュースを目にした時房主が感じたのは、
「幸福を数値化できるのか?そもそもそれになんの意味があるのか?」
です。
「比べるから不幸になる」
易経に「水地比」という卦があります。
師とは衆なり。衆なれば必ず比(した)しむところあり。故にこれを受くるに比(ひ)をもってす。 (易経 序卦伝)
序卦伝にある通り、「比」とは「比べる」ではなく「親しむ」と読ませる。また水地比の卦徳は、衆人と比和、心を一つにする時で、「後夫は凶(善は急げ)」という言葉がかけられています。
水地比の前、易経7番目の卦は「地水師」で戦争の卦です。
易経において、人類はすでに戦争を超えた概念として、「共存共栄」の道が示されています。
ここに充てられた辞は「比」であり、これは長椅子に仲良く二人並んで座る様子を表した象形文字です。だから水地比の卦は、上卦の坎(水)が流れ下る様子を内卦の坤(土)が暖かく受け入れ受け止める穏やかな吉卦です。

そもそも、「幸福を数値化し、比べるからそこに満たされない劣等感が生じる」
人が「幸福」と感じる価値観はさまざまであるし、例えば国のGDPという数字もしばしばランキング化されますが、幸福度も、GDPも一個人がコントロール出来る数字ではありません。一個人が歯を食いしばって頑張ったところで、幸福度やGDPのランキングが上がるわけでもなし
…ところで「頑張れ」と激励する言葉は、日本語以外にもそれを意味する言葉はあるようですが、これを動詞にする「頑張る」という言葉は日本語しか無いようです。
これは何か、こつこつ積み重ねる日本人の美徳でもあります。

これは一個人の範囲内であるならば「憤」という大きな力となり得ますが、戦後の自由主義教育が国内にもたらされた時、そこにあったのは「他者との比較」です。
それでも敗戦後の「戦後復興」という大義の下に、「追いつけ追い越せ」の資本主義の競争の論理は「競争の果てに醸成される”劣等感”」を脇に置いてでも肯定されてきました。
韓国も戦後は日本と同じような歴史をたどっていますから、アメリカからもたらされた自由主義教育の結果、「競争=美徳」に巧妙に置き換えられ、ここにランキングの低位に甘んじる日韓の不幸の原因があると考えられます。
ここに思考が至ったとき、幸福度同様、「運氣」というものを可視化する占いにおいても同様なことが言えないか?という強烈な自己矛盾に陥りかけました。
ただし、そもそも易経というものは「他者(物)と比較する」ということを前提にしていません。かけられる言葉は全て一人称であり、その言葉より取るべき行動を促す能動的な情報です。
ランキング化された幸福度、あるいはGDPも数値ばかりが独り歩きし、一個人では如何ともしがたい絶望感ばかりが募ります。
しかし、ここでグローバルな視点ではなく、一個人にこの問題を置き換えた時、GDPや幸福度といった数値が自分の心を、あるいは腹を満たすのか?
とかく近現代以降の歴史は、人に「国家」というマクロ、あるいはグローバルな視点を強要しますが、自身の足元を見ることなく、壮大なビジョンとして未来を描くスローガン、あるいはプロパガンダに目を奪われてはいまいか?
幸福度ランキングも経済指標であるGDPも具体的な数字として示されるからそこに意識を否が応でも向けてしまいますが、
本当の「幸せ」とは「私合わせ」と房主は考えます。
人それぞれの、身の丈に合った「幸福度」があっていい。

その度数を図るための手段として「占い」はあるのだと思いますし、その結果から得られる一定の指標、それが個々人の行動を促すものであるならば(そもそも占いとはそういうものです)、幸福度やGDPといった数値よりも、個々人にとってもっと能動的、具体的な”値”なのではないかと考えています
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