「易経」は地図である

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「易経」は地図である

改めて「繋辞上伝」を読み返しています。

その中で既に読み解いた「繋辞上伝」の第4章第2節が、繋辞上伝の中でも重要な一節であることに改めて氣付かされたので、再掲します。

天地と相い似たり、故に違(たが)わず。知、万物に周(あまね)くして道天下を済(すく)う。故に過(あやま)たず。旁(あまね)く行きて流れず、天を楽しみ命を知る。故に憂えず。土に安んじ仁に敦(あつ)し。故に能く愛す。(繋辞上伝第4章第2節)

特に重要であると感じたのは、この節の末に「愛」の文字が見えること。

孔子が「愛」の文字を使うのは、繋辞上伝後にも先にもここだけです。

易経の解釈は人それぞれであり、また様々な解釈が可能となっています。孔子の著した「論語」をして「円珠経」と言い、誰が何処から読んでも、どのように読んでも解釈できる、3000年たっても色あせない新鮮さが維持されている所以がここにあります。

孔子自身、この論語に込めたその思いは易経に由来し、そして易経の具体的な実践として儒教がある。だから「論語」には君子、大人が心すべき「道」を示すけれども、君子、大人は「これをしてはならない」という罰則や戒律は無く、これは易経でも同様です。

ところで、「易経を活かす」というその活用法をめぐり、「易経とは人生の指針である」という考え方と、「易経とは人生の羅針盤である」という、近似的な二つの視点があると思います。

両者は非常に似ているようで、決定的に異なるのは「運命」というものをどのようにとらえるか?です。

易経を現代語に訳し解説した名著の中に、本田濟先生の「易」(朝日選書)があります。本田先生の解釈は前者に根差し、本文をそのまま引用すると

「易の示すところは天の法則であり、人の運命である。易は天の法則を楽しみおのが運命を知ることを教える。天の法則が人に在っては運命となるので楽天と知命は別のことではない。運命を知って、それがいかなるものでも喜んで受容すること、それが同時に天を楽しむことである」

この考え方は前者「 易経とは人生の指針である=運命とは受容するもの」という考え方であると思います。

ここは運命學を生業とするものからすると痛烈に批判したいところです。

老子の世界観に立てば天地に慈悲はないし、例え思いもよらない天災に巻き込まれ命を落とすようなことがあっても、それが「運命」と甘んじて受け止める。これはこれで諦観としてはよいでしょう。

しかしこれで本当に「易経を活かしている」と言えるのか?甚だ疑問です。これが運命だから…と易経の結果をそのまま無条件で受け入れることが運命で、それが天の法則として無条件に受容するのは我慢ならない。

ならばなぜ、何のために伏羲が、神農が、堯、舜、禹王が、湯王や文王が易経を紡ぎ後世に傳えたのか?

例えば易で占いを立てて「吉」を得ては喜び、「凶」を得ては憂うことに終始し、そこで行動が停まってしまっては易経を活かしたとは言えないし、これが運命だと無条件で受容してしまっては、何の進歩もありません。

易経の摂理を熟慮黙考の上に理解した孔子が、論語において「たとえ理解されなくてもそれが運命だとあきらめよ」のようなことを述べ伝えたのであったなら、後世において儒教は否定され、批判されもっと違った物に変わって伝わっているはずです。

孔子は繋辞上伝第4章のこの節において唯一使用する「愛」の文字。ここには至善、至高の宇宙識が込められています。ただし「愛」と一口に言っても様々な種類があります。

・エロス(情欲的な愛)
・フィリア(深い友情)
・ルダス(遊びとゲームの愛)
・アガペー(無償の愛)
・プラグマ(永続的な愛)
・フィラウティア(自己愛)
・ストルゲー(家族愛)
・マニア(偏執的な愛)

ギリシャ哲学においても「愛」8つに分類され、中には偏執的な愛も含まれる。

孔子もまた、繋辞上伝を紡ぐにあたり言葉について吟味に吟味を重ねています。もちろん伝えたい概念として、この「愛」が目標にあるのですが、これを説明するに言葉を重ねてはいかにも陳腐であり、説得力を欠く。

それよりも「愛」に至る前の段階、中には偏執的な愛もあるわけですから、その愛を正しく理解し愛し愛される存在、すなわち「聖人」という存在に至る過程に焦点を当てる。

それが孔子の唱えた「仁」であります。

だからこの繋辞上伝のこの節「 仁に敦(あつ)し。故に能く愛す。 」と、愛の前に仁が置かれています。さらに続けて第5章第2節で「仁者」を定義する。仁を極めた時、その人物は「聖人」の域に達すると孔子は定義します。

それでは「仁を極める」とはどういうことか?

これが繋辞上伝第4章第2節の中枢を成す解釈であり、孔子が理解した「易経を活かす」という究極的な目標でもあります。

「 土に安んじ仁に敦(あつ)し。 故に能く愛す。 」を意訳すれば「自立したものは他者を慮ることができる。そうして他者に寄り添い、慮ることができる仁者はいつしか衆人から尊敬され、敬愛されるようになる。ゆえにこれが“愛する”ということなのだ」です。

それでは「土に安んじ=自立」とはどのように成すべきか?

ここで「運命」の解釈が重要となってくるのです。

「これが運命」と無条件の受容では、とても誰かに思いを致し、顧みる余裕は感じられません。そうではなく自身の運命…運命とは“命を運ぶ”という能動的行為そのものであり、これが達成できて初めて「自立」と言える。

易経はいうなれば「地図」であります。これは3次元的には自身の空間軸での立ち位置を知り、4次元的には自身の時間軸の中での立ち位置を知る手掛かりとなります。手がかりもないまま、未来の見通せない現実の暗闇を手探りで進むより、易経という地図を手掛かりにすれば、より進むべき道を正確に見出すことができる。ここで初めて「余裕」が生じる。この余裕を以て初めて、周囲を見回した時、困窮する同胞に手を差し伸べることができる。

この差しのべるべき対象が無限に広がり、衆人を愛し、結果またその衆人から敬愛されるべき存在に自身が昇華した時、初めてその人は「聖人」なのであり、孔子がその聖人の行為そのものを「愛」と表現する由来なのです。

易経の中にはその本質は「愛」であることが幾重にも込められているし、それに氣付き、その「愛」に基づいた行動を促すのが易経の役目であるならば、まず自らが己の立ち位置を知り、その上で自らの命を積極的により良い方向に運んでいかなければなりません。それが易経の存在意義であり、運命學の目的なのですから。

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