易経「繋辞上伝」を読み解く⑨ 

易経繋辞伝
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易経「繋辞上伝」を読み解く⑨

一陰一陽之を道と謂(い)う。之を継ぐ者は善也。之を成す者は性也。仁者は之を見て之を仁と謂う。知者は之を見て之を知と謂う。
百(ひやく)姓(せい)は日に用いて知らず。故に君子の道は鮮(すくな)し。(繋辞上伝第5章第1節)

「 一陰一陽之を道と謂(い)う。 」

陰陽の働きは一筋の糸のように直線的に作用します。滝つぼに落ちる滝は目には上段から滝つぼ向かって水流が勢いよく落ちてきていますが、目には見えないけれど一方で上昇する氣流があります。

陰と陽の作用はどちらかが多くどちらかが少ないという99:1のような不均衡の時はあっても、100:0の関係はあり得ません。必ず少なからず陰陽の交わりが残る。陰が陽を駆逐したり、陽が陰を放逐することが「破滅」に向かってしまうことを、易経では冒頭の「乾為天」の上爻で「亢龍悔有」と「坤為地」の上爻で「龍戦干野」と戒めています。

したがって、陰と陽の作用は「生成化育」と「還元再生」で共に「生」の作用であり、何かを亡くしたり、壊したり、滅したり、お互いに奪い合うような作用はあり得ません。

「 之を継ぐ者は善也。之を成す者は性也。 」

その作用は本質的に「愛」であり、「善」であり、何かを生み出すための相互作用が易の本質で、これを「性」の辞をもって表現します。この「性」の「立心偏」は「心」ですから、「性」の字は生命であり、生活であり、そのための本能であり、また良心です。

ただし陰陽の作用に意識はありません。宇宙の法則は本質的に「生」のみであり、そのエネルギーとして「愛」があります。そこに善や悪の価値観は存在しません。

この句「之を継ぐ者」「之を成す者」と「物」ではなく「者」と人格を持たせたのは、このことを理解できるのは人間だけだからです。その陰陽の作用に価値を見出し、そこから學ぶことが「人間」に課せられた修養であり、易経を學ぶ者はまずそれを感じ取らなければなりません。

「 仁者は之を見て之を仁と謂う。知者は之を見て之を知と謂う。 」

儒教的道徳を体得した「仁者」であればこの易の本質を「仁」と表現するでしょうし、あるいは易経をもっと深く學びその叡智を理解するような「知者」であればこれを「知」と表現するかもしれない。

しかし、この世で生きる多くの人は「生」だ「愛」だといっても、何か信心めいた宗教的な圧迫感を感じたり、陳腐で浮ついた理解にとどめてしまいます。日々陰陽の作用、宇宙の法則のもと、それを活かし、またそれに生かされていることに氣が付きません。

「故に君子の道 は鮮(すくな)し 」

この一句、孔子は易経というものに思いを致した時、身の回り、自然に当たり前のように存在するものであり、この世のものは全て活かし、生かされる存在であるのに、どうして人は「破壊」という行いを為すのであろう?…という思いに至ったはずです。

孔子の生きた時代、中国は戦乱の時代でありました。…おそらく孔子は、易経の真理、摂理を伝えるにあたり、それらを「仁」に集約することで、人々に「破壊」でななく「生」や「愛」という易経の真理、摂理、則ち宇宙の法則を伝えようとしたのだと考えます。

少し周囲に意識を向ければ、この世界には手本とすべき「道」がそこかしこに示されているのに、どうして人はこれに気が付かないのであろうか?…「故に君子の道は鮮なし」と…、半ば逆説的にこの句をもって節を終える。孔子の深い嘆息が聞こえてきそうな一句です。

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