易経「繋辞上伝」を読み解く⑩ 

易経繋辞伝
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易経「繋辞上伝」を読み解く⑩

諸(これ)を仁に顕(あら)わし、諸(これ)を用に蔵(ぞう)し、萬物を鼓(こ)して聖人と憂(うれ)いを同じくせず。成(せい)徳(とく)大(たい)業(ぎよう)至れる哉(かな)。富(ふ)有(ゆう)、之を大(たい)業(ぎよう)と謂い、日新之を成徳と謂う。(繋辞上伝第5章第2節)

前節をそのまま受けて解釈を進めます。

万物を「生みだす」という陰陽の働きのエネルギーの本質は「愛」(孔子はこれを「仁」であるとした)であり、時に自然は例えば早春の雪解けの合間から木々が芽吹くように、そこに「愛(仁)」を感じさせ、時に氣が付くようにその作用を明らかにすることもあるが、元々これは内に秘められたもので、むしろ自然の中で生きる人間が氣が付かなければならないものです。

易経の伝える宇宙の法則は本質的に「愛(仁)」であるが、宇宙がそれを意識して万物を生じるのではなくごく自然にそれであることが当たり前であるから、たとえ聖人と呼ばれる人(孔子自身も含めて)が天下に憂いを覚えて易経の真理摂理を伝え、万民を教導する事とは次元が違います。もちろん易経の真理摂理を体得した聖人も高い徳があるといえるが、天地宇宙の成す大業を前には比べようもありません。

易経に遺漏はなく、自然に無駄なものは何一つない。これぞ当に「大業」と言わずして何であろうか?そしてその営みは一日として休むことが無い、これを「成徳」と言わずして何であろうか?

生生之を易と謂う。象を成す之を乾と謂う。法を効(いた)す之を坤と謂う。数を極め来を知る之を占と謂う。変に通ずる之を事と謂う。陰陽測(はか)られざる之を神と謂う。(繋辞上伝第5章第3節)

何かを生み出し、役目が終わった物からまた新たなものを生み出す。この無限の「生」の活動こそが宇宙の法則でありこれが「易」です。その仕組みは実に単純であるから「易簡(簡易)」であり、常に変化に富むから「変易」であり、その活動は永久不変であるから「不易」なのです。

万物を生み出す最初の作用である「陽」の作用は目に見えることも耳に聞こえることも稀ではあるけれども、確かにそれを感じ取ることができる。一方で陽を受けて陰が生じる万物を我々人間は、今度は確かに目で耳でそれを「物」として認識できます。その作用は一陰、一陽から始まり微細なものではあるが、そこには乾坤一擲の膨大なエネルギーが満ち満ちています。

それゆえに易経の冒頭に「乾為天」と「坤為地」が配され、乾為天の彖辞は「大いなるかな乾元」で始まり、坤為地は「至れるかな坤元」と大象伝にそれぞれ孔子自ら辞をかけ、繋辞上伝で改めてこれを「 象を成す之を乾と謂う。法を効(いた)す之を坤と謂う。 」と強調しています。

「 数を極め来を知る之を占と謂う。変に通ずる之を事と謂う。 」

万物の生成化育には段階があります。

それを表したのが64卦象であり、さらに爻をもって各卦象を細かくそれを分別する。この段階を自らの立ち位置や運氣を知る手段として用いるのが易占であり、そこで得た卦象より、之卦(2次元的視点)、互卦(3次元的視点)、綜卦(4次元的視点)、錯卦(5次元的視点)と変化されることで事の行く末を見定めることができます。

「 陰陽測(はか)られざる之を神と謂う 。」

易経の真理摂理を体得できれば、万物のあらゆる理法に通達したといえます。しかし、悟りを得たその先に更に真理の高い頂をみるように、宇宙の根源はもっともっと深い所にある。

もちろんこの地球も、我々の魂もそこを目指してと時空を超えた旅をしているともいえるでしょう。この大宇宙の中心であり根源にはいったい何があるのか。陰陽生じた「太極」がなんであるのか、これを知る術は我々にはありません。ゆえにそこが「神」の世界です。

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