易経「繋辞上伝」を読み解く12

易経繋辞伝
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易経繋辞上伝を読み解く第6章第1節から3節までを通読します

易経「繋辞上伝」を読み解く12

子曰く、易は其れ至れるかな。
夫れ易は、聖人の徳を崇(たか)くして業を広むる所以也。
知は崇く礼は卑(ひく)し。崇きは天に効(なら)い、卑きは地に法(のっと)る。
天地位を設けて、而して易、其の中に行なわる。
性を成し存すべきを存するは、道義の門なり。(繋辞上伝第7章)

孔子は易経を学ぶに当り、当時の書物であった竹簡を結んであった皮ひもが擦り切れて3度も切れるほど熟読したと言われています。

冒頭の「 子曰く、易は其れ至れるかな。 」はその孔子の感慨の嘆息とともに紡がれる言葉。

「易」は易経であり宇宙の法則であり、地球上全ての万物を包括します。「其れ至れるかな」…何一つとして遺漏なく、何一つとして無駄も余分なものも存在しない自然が、全て陰と陽の作用から始まっている、その単純かつ明快な摂理に対する畏敬の念が込められた一句です。

「 夫れ易は、聖人の徳を崇(たか)くして業を広むる所以也。 」

陰陽宇宙の法則は、万物を生じるその作用を誇ることなくそれが当然であるがために淡々と行います。

天地陰陽の作用に価値を見出し、その意義を理解体得した聖人は、その易( 陰陽宇宙の法則 )の真理摂理を以て万民を教導し、またその真理摂理を以て世界をより良く変えていくためには、広大な「徳」を伴わなければなりません。

「 知は崇く礼は卑(ひく)し。崇きは天に効(なら)い、卑きは地に法(のっと)る。 」

その広大な「徳」を身に着けるためには「乾天」のような高い知性が必要であり、一方で「坤地」のような謙譲と慈しみの心「礼」を併せ持つ必要があります。

礼を欠き知性ばかりでは、その知を鼻に掛けた様が傲岸不遜に見えるし、知性を欠いた礼ばかりでは軽んじられます。

「 天地位を設けて、而して易、其の中に行なわる。 」

しかし、その徳を身に着けるということも易経には遺漏なく示されている。それが剛に過ぎず、柔に拘泥しない、賢に頼らず愚に甘んじない、独を尊ばず周囲に迎合しないという実に微妙な「中庸」を、易は「道」として示すのです。

「 性を成し存すべきを存するは、道義の門なり。 」

「性」は第5章第1節の「之を成す者は性なり」の性をそのまま引き継ぐべきでしょう。

この世のあらゆる生の源、陰陽の作用の本質には「愛」であり「仁」であるから、君子を目指す小人も、大人を目指す君子も、聖人を目指す大人もその本質を見失ってはならない。

その本質無くして生み出されるものに普遍性はなく、たとえ高名な学者や高い技能を持った技術者が生み出し、作り出したものであったとしても、それには何の価値もないのです。

最後の一句「道義の門なり」には、孔子自らのその教え、生き方に対する自戒の念が込められているように感じます。

「 性を成し存すべきを存するは 」の句、漢文では「成性存存」であり、読み方によっては「性(愛・孔子は仁と解釈)を成すためには、あるべきことを見失ってはならない(存すべきを存す)」と取れ、そのために徳を高め修養に努めなさい、それがあらゆる道徳の門である…と言う解釈も成り立ちます。

学を為(な)せば日々に益(ま)し、道を為せば日々に損(そん)す。これを損して又(ま)た損し、以(も)って無為(むい)に至る。無為にして為さざるは無し。天下を取るは、常に無事を以ってす。その事有るに及びては、以って天下を取るに足らず。(老子道徳経第48章)

孔子は易経を通じ、君子、大人、そして聖人に至る道程を、日々「中庸」であるために高い知識、見識、胆識を身につけなさいと説くのに対し、老子はこれを「爲道日損」で日々捨て去れ、そぎ落とせ…と説く。

この辺り儒教と道教の考え方が同じ所を目指しつつも真逆であるところが、解釈を通じて味わい深く感じる所です。どちらも正解であるには違いありませんが…

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