易経「繋辞上伝」を読み解く40

易経繋辞伝
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易経「繋辞上伝」を読み解く39
易経繋辞上伝を読み解く。第12章第1節。火天大有卦の卦辞「自天祐也」とは「天はみうから扶けるものを扶く」と解釈できる。つまり自立し、生きようと前向きな存在に陽がはたらき、立ち止まるものには陰が働きかける…そんな関係でしょう。
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易経「繋辞上伝」を読み解く40

子曰く、書は言を尽(つ)くさず、言は意を尽くさず。然らば聖人の意は、それ見るべからざるか、と。(繋辞上伝第12章第2節第1句)

この節は、ここまで易経を読み解いてきた孔子を含め、易経に触れるものが必ずぶつかるであろう「壁」について、孔子自ら自問自答して、その己が感じた矛盾について論考、解決しています。

「 子曰く、書は言を尽(つ)くさず、言は意を尽くさず。然らば聖人の意は、それ見るべからざるか、と。 」

「私(孔子自身)はこのように考える。書=易経はすでに周の文王や周公であられる旦が、卦象を「辞」として人語に訳された。すでにその訳にあたっては言葉を吟味し、これ以上ということができないぐらい、洗練し尽くされているが、人語は万物をあまねく網羅することはできないのであるから、文王や旦が残した「周易」が至高至上の存在であるというわけではない。

また、易経に込められた真意については、先哲の湯王や禹王、聖人伏羲がそれを卦象を以てさまざまに示されたところではある。しかし易経はそういった偉大な先哲の人智すら超えた存在であるから、いかに聖人と言えど、その精緻、その一寸のほころびもない様を言葉や書として言い尽くす語りつくすことはできないのである。

ならば、我々は周の文王や、周公である旦、またはそれ以前の殷の湯王や夏の禹王、易経を作ったといわれる伏羲の至った真理、真意を量り知ることはできないのであろうか?」

視之不見、名曰夷。聴之不聞、名曰希。搏之不得、名曰微。(それを観ようとしても見ることはできない。これを仮に“夷”と呼ぶことにしよう。それを聞こうとしても聞こえない。これを仮に“希”と呼ぶことに使しよう。その在処所在を探そうとしてもとらえることができない)老子道徳経第14章
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これまでの章で読み進んできた易経に、孔子自身が直接的に疑問を投げかける重要な一節です。

卑近な例で、必ずしも「=」で結ぶことのできない引用なるかもしれませんが、この辺りの壁は「政治」というものに関わる人の抱える矛盾に似ています。

大なり小なり、「政治」はそこで暮らす人々を「幸福」に導く使命を持っています。しかし、一方で政治は「権力闘争」であります。なぜならば、現実の政治は極めてそれに携わる人の、体力、資力、精神力を奪う者でもあるからです。

そこには、自身が抱く理想実現の為に妥協と打算に直面する現実の連続であったり、様々な人間の思惑が複雑に絡み合い、その「最悪」の中から「最善」を見出さなければならない妥協の連続でもあります。

これを誰かを説得、説き伏せようと語っても語りつくせず、それを実現するには時には誰かを欺き、誰かを犠牲にする時もある。その過程において、政治に携わる者、関わる者、巻き込まれてしまった人が一度は至る心境に「アナーキズム」があります.おそらくこのアナーキズムの行きつく先に「老子」の思想があります。

しかし、人の生を営むにあたり、周囲との関りを排し、個人として生きるのであれば「老子」の思想、「アナーキズム」は理想であり、一個人の世界観においてはその実現は容易です。しかし、自分以外の集団に身を置いた時、その瞬間にハードルは「壁」として急に高くなります。

そこに至る前に“易経”に救いの道は示されていないのか?

文王が訳した書物としての易経は、人間社会が発展し、家族が集落を形成し、集落が都市を形成し、都市が国家を形成するという現実の社会(当時の人間社会の発展に照らしあわせた)が描かれています。

人語に訳した文王がそれを意図したのかはうかがい知れませんが、人語に訳した時点で“易経”のベクトルが人間世界にその軸足を移してしまった。

それゆえに、孔子がそうではない、本来の易経とは…と繋辞上伝を通じ述べ伝える所、同時に老子が可能な限りの人為をそぎ落とし、本来の姿に立ち戻れ…それが易であり道である…と主張したところに共通する意図、意識を感じます。

人語に訳してしまったがゆえに抱えた“易経”の最大の矛盾、それは「占いのテキスト」としてまとめられたがために、凡百な凡人にとっての関心が、卦辞、爻辞に述べられているところの「吉凶」に集約されてしまうところにあります。

人語に訳された易経は、卦辞、爻辞においてその都度丁寧に「吉凶」を明確にし、その改善策として「悔吝」を示します。

しかし易占でそれを得た者、あるいはそれを読む者は、中にはその言葉に安堵、あるいは失望しそこから改善ないし、行動する事、易経を活かしそれを以てより良く生きること、それすらも放棄してしまった者も少なからず居ると考えられます。

「易経」の本質とは、“生成化育”“還元再生”の陰陽の二つの作用、またそれぞれにその陰陽が関わる宇宙法則、そして万物に宿るその法則性を理解し、そこから自身の身の周りを取り巻く事象に置き換えた時に“吉凶(生=生成化育=吉,死=還元再生=凶)”感じ取ることにあります。

ゆえに、易経を活かす者は、それを読んで理解する以前に、“感じ取る”という感覚を養わなければなりません。だから、易経の「下経」の最初に「沢山咸」という「感応、感覚」を象徴する卦が置かれています。

易経の「上経」は先天八図に基づく地球創生、この自然創生の過程を紡いだに対し、「下経」は人間社会の発展過程を紡いだものであるからです。

知性よりも先行して感性がある、これは理性よりも先行する物であり、人間が野生動物同様に、この世界で生きる生物としての本質の一端でもあるでしょう。

まず感じる所の“快”か“不快”か、そこから不快であれば快に至る為に周囲環境を変えることができるのは人間だけであり、それを現実だけではなく未来に求め、未来が現実に至るまでの猶予期間において、不快を快に変えることができるのも人間だけです。 

易経がそれを解する人間に傳えようとしているところは、そこに集約され、吉凶=善悪という小さな価値観にとらわれて、その本質を見失ってはならないと、孔子はこの節を以て警鐘を鳴らします。

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