易経「繋辞下伝」を読み解く8

易経繋辞伝
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易経「繋辞下伝」を読み解く7
繋辞下伝を読み解く第二章の読み解き

易経「繋辞下伝」を読み解く8

神農氏没して、黄(こう)帝堯(ぎょう)舜(しゅん)氏作(おこ)る。その変を通じ、民をして倦(う)まざらしめ、神にしてこれを化し、民をしてこれを宜しくせしむ。易は窮まれば変じ、変ずれば通じ、通ずれば久し。ここをもって天よりこれを祐(たす)け、吉にして利ろしからざるなきなり。黄帝堯舜衣裳を垂れて天下治まるは、蓋しこれを乾坤に取る。(繋辞下伝第2章第5節)
「 神農氏没して、黄(こう)帝堯(ぎょう)舜(しゅん)氏作(おこ)る。その変を通じ、民をして倦(う)まざらしめ、神にしてこれを化し、民をしてこれを宜しくせしむ。 」

「聖人の神農氏が没すると、続いて黄帝、堯、舜、禹の聖人が現れた。時代の変化とともに、万民の生活様式も変わり、それまでの様式では通用せず万民は物足りなく感じる様になった。そこで聖人たちは陰陽の変化をもとに、万民のために様々な道具や技術、知識を発明した。」

この句の「神にして」の表現からも明らかなとおり、繋辞上伝にも表れる「神」は神格ではなく、陰陽の作用であります。仮にこの「神」を神格として読み取るならば、 黄帝、堯、舜、禹 だけでなく、その前の伏羲、神農も聖人ではなく、神と表現すべきですから、易経に現れる「神」は神格を帯びた神ではなく、太極より生じた両儀である陰陽の作用なのです。

したがって、 黄帝、堯、舜、禹 と神農の後に続いた聖人たちもまた、伏羲や神農が易経の卦象を習いとして様々な道具や技術、知識を発明したのと同じく、易経の摂理、卦象をもとに文明を開化し、万民を教導していったのだと孔子は説明します。

「 易は窮まれば変じ、変ずれば通じ、通ずれば久し。 ここをもって天よりこれを祐(たす)け、吉にして利ろしからざるなきなり。 」

「物事は行き詰まれば変化を促し、変化すれば物事は滞ることなく通達する。通達すればさらに物はが発展し、この流れは留まることの無い易の摂理である。この摂理を以て“火天大有”にあるように“天よりこれを祐(たす)け、吉にして利ろしからざるなきなり”というのである。」

易経に言葉を掛けたのは周の文王及びその次子である旦と言われています。ただし文王父子が全く何もない所から文章化したとは考えられず、おそらくは伝承として伝わっていた部分を繋ぎ合わせ解釈した部分があると想像します。

爻辞を読んでいると、一部は文王の業績を称える爻辞があり、これが次子旦の作、一方でその他の爻辞は動物の様子に例えた物、王の統治に例えた物など生活様式、統治様式を表したものが爻辞でありますから、文王の業績としては、口伝等で伝わっていた伝承の断片をつなぎ合わせる一方、不要な物を捨て去る作業を行ったのではないかと考えるのです。

したがって繋辞上伝、繋辞下伝を含め孔子作と言われている周易の彖伝、象伝等もまた、孔子がそれまで伝わってきた周易をさらに整理統合し、通達しやすいように編みなおしたものと考えられます。

ですから、繋辞下伝のこの章も、聖人たちが易経の卦象をもとに様々な道具や技術、知識を考案した…という繋辞下伝における孔子の説明は、確かにその卦象をもってすれば意味の通らない事ではないものの、やはり孔子の創作や創造によるところが大きいか、後代まで伝わっていない失われた文献をもとに孔子が編みなおしたものではないか…?と考察するのが妥当の様です。

「 黄帝堯舜衣裳を垂れて天下治まるは、蓋しこれを乾坤に取る。 」

「黄帝、堯、舜、禹の聖人たちは、その天子の衣を悠然とまとうように、威を以て天下を治めた。これこそが善を成してそれを誇ることをしない乾と坤の作用、易経の摂理を自ら体現したような統治であったのだろう」

孔子は前句“火天大有”の爻辞(上爻)の引用を、承けてこの句を続けます。

“火天大有”の五爻の爻辞には「厥(その)孚(まこと)、交如(こうじょ)たり。威如(いじょ)たり。吉。」とあり、万民が認める有徳有能の君主であるが、時に己を空しくし誇ることなく賢人の言葉に耳を傾ける。その姿に万民は感動して、その威厳に服する様子を「 交如 ・ 威如 」と表現します。

大上下知有之。其次親而譽之。其次畏之。其次侮之。(老子道徳経第17章)
「大上は下之有るを知る。其の次に之に親しみ、之を誉む。其の次に之を畏れる。其の次に之を侮る」
「最上の統治とは、民が統治されていることを意識しない政治だ。次に臣民が統治者を褒め称える政治、その次は民がこれを畏れる恐怖政治、一番悪いのが、民が侮り嘲る政治である」

政治の在り方について老子はこの様に評価する。このありようを易の卦に例えるならば、下から「雷沢帰妹」「天沢履」「乾為天」「火天大有」の卦を当てはめることができます。

孔子は君子、大人のその先にある人としての至高の存在である聖人の威徳を称えることで、この節を結びます。

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