易経「繋辞上伝」を読み解く36

易経繋辞伝
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易経「繋辞上伝」を読み解く35
繋辞上伝112章第3節易占に対する占者の心構えとその禁忌を説く
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易経「繋辞上伝」を読み解く36

この故に戸を闔(とざ)すこれを坤と謂い、戸を闢(ひら)くこれを乾と謂い、一闔一闢(いっこういっぺき)これを変と謂い、往来窮まらざるこれを通と謂い、見(あら)わるるはすなわちこれを象と謂い、形あるはすなわちこれを器と謂い、制してこれを用うるはこれを法と謂い、利用出入して民みなこれを用うるはこれを神と謂う。(繋辞上伝第11章第3節)

この節は、六爻の陰陽に変じる所、八卦を構成し、上下に八卦交わって卦象ができ、卦象より具体的な事象を想像したり、その形より物事の帰結やその原因を究明する。またそれを未来予測に使用する…と、爻と卦象の役割とその用い方を論じます。

繋辞上伝を読み進めるに感じるのは、孔子の繰り返し読み返し、そしてその意義を説く、一見同じことの繰り返しでありますが、それだけに「葦偏三度断つ」と司馬遷が史記で評したように、繰り返し反覆して易経を読み込み、深い感慨とともに熟考した孔子の想いが伝わって来るようです。

「 この故に戸を闔(とざ)すこれを坤と謂い、戸を闢(ひら)くこれを乾と謂い、一闔一闢(いっこういっぺき)これを変と謂い、往来窮まらざるこれを通と謂い、見(あら)わるるはすなわちこれを象と謂い、形あるはすなわちこれを器と謂い、制してこれを用うるはこれを法と謂い、利用出入して民みなこれを用うるはこれを神と謂う 」

「このように、物事をその庫裏の扉を閉め中に収容し、内にとどめ蓄えることが“坤”の働きであり、一転門戸を開いてこれを表に出し惜しみなくあまねく施すことが“乾”の働きである。この庫裏の門の開閉する様が陰陽の変化、すなわち爻の変化であり、とどまることなく融通無碍に変化する様子を“(変)通”という。この変化の末に爻が重なり一つの事象に収れんされていくことを“象=八卦”といい、この“象=八卦”が重なることで一定の現象を表現する。これが“器=卦象”であり、これを用いることを“法”というが、これは伏羲や神農、大禹等が確立した易占(占筮)法であり、文王が周公旦が掛けた“辞”であり、これを用いて“出入=未来、吉凶”を予測する事が“神=聖人”の成す技である」

この節、“乾坤”とせず。まず“坤”を用い蓄えることを先に論じた背景には、太極より生じた“乾”の陽氣を、まず“坤”が受けてそこから万物が生じる“乾”の働きを表現しているためです。

従って「 戸を闔(とざ)すこれを坤 …」の前提として、太極から発する陽氣を既に坤が受けています。

「 一闔一闢 」と陰陽の作用の様を門扉に例えた孔子は、「天地間に立つ“人間”」の使命を強く認識かつ理解していたと思われます。

ただし、この辺り同じく“門”と表現する老子の思想と温度差があります。

道の道とす可きは、常の道に非ず。名の名とす可きは、常の名に非ず。名無きは天地の始にして、名有るは萬物の母なり。故に常は欲無からば、以其の妙を観る。常に欲有らば、以其の徼を観ん。此兩なる者は、同きより出でて名を異にす。同く之これを玄と謂う。玄の又また玄は、衆妙の門からなり。(老子道徳経第1章)

これが道と示すことができる道は本当の道ではなく、これが名と示すことのできる名は本当の名ではない。名前も何もない所のの物が天地の始まりであり(太極)、名前がついて初めて万物が生まれる所の物は母体である(乾坤の両儀)。
故に無欲(乾の陽氣のように発するを専らとすること)であれば宇宙の偉大なる作用を認識できるし、有欲(坤が陽の氣を受け、陰の氣として万物を発する事)であれば、その作用が実に繊細であることを認識するだろう。この両者は、根本は同じであるが名は違う呼び方(陰陽)になる。根本の同じところを玄(奥深い深淵=太極)と名づけ、そこからこの世界を構成するにあたり不可欠な働きをもつ万物が生まれるのである

老子の思想には、天地間に存する人間の役割に対する考え方が希薄です。

つまるところ、

「人間は宇宙に、自然に生かされている。従って、その生き方は自然に寄り添ってつつましく生きるべきであり、時として起こりうる天災や、自然の恩恵から学び、その生き方を“道=宇宙の法則”に即するように、洗練されていくべきだ」

と考え、易経に対しても甚だ受動的です。

一方で孔子は

「天地間に繰り広げられるあらゆる事象を易経=宇宙の法則を通して理解し、それを活かして自らのために、また人間以外の万物が等しくその恩恵を受けられるように、易経を通じて学び世界を、環境をより良く変えていくべきことが天地間に立つ“人間”の役割である」

…とそのために修養に励み、易経に通達する聖人を目指せとアプローチします。

農業であれば「不耕起の自然栽培」が前者的な考えであり、一方で「パーマカルチャー」は後者の思想に即していると思います。

もし、易経を“未来予測”の手段(私は占術家ですから)と、これを考えるのであれば、断然後者です。老子の思想では吉も凶も甘んじて受ける、そこから学ぶ…と余りに受動的であり、これでは「吉凶を断じ未来を予測する」ということにおいて、占術を活かす余地は限られています。

農業の例えをそのまま引き継げば、自然栽培は病害虫が発生しないバランスの良い土づくりと、災害にも耐えうる根の強い野菜に育てることにその目的があります。そこには「天災の有無」や「収量の多寡」といった分野ですらも自然から学ぶことで察知するために、占術の介入する余地はあまりに少ないです。

一方でパーマカルチャー的な考えであれば、人間の手が介在できる分野においては積積極的に人間が介入する。そこに秋までの天災の有無や収量の多寡という分野などで「占術」は介入できます。

生き方としては甚だ「老子」に共感するところがありますが、この余りに受動的な部分は相いれない部分でもあります。

易経「繋辞上伝」を読み解く37
易経は書物ですから文字度居る読む者なのですが、読んで理解するよりも先に、「感じ」理解するという前提無しに之を理解することはできないと思います。

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