易経「繋辞上伝」を読み解く35

易経繋辞伝
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易経「繋辞上伝」を読み解く34
繋辞上伝11章第2節聖人が易占を以て万民を共同する意義を説く

易経「繋辞上伝」を読み解く35

ここをもって天の道を明らかにして、民の故(こと)を察し、ここに神物を興してもって民用に前(さき)だつ。聖人はこれをもって斉戒(さいかい)し、もってその徳を神明にするか。(繋辞上伝第11章第3節)

前節を承けて「仁者」であれば、聖人の域に一歩近づく。そして人間が目指す究極の目標である「聖人」がいかに易経を用いて、民を導くかについてこの節はさらに深く解説します。

「 ここをもって天の道を明らかにして、民の故(こと)を察し、ここに神物を興してもって民用に前(さき)だつ。聖人はこれをもって斉戒(さいかい)し、もってその徳を神明にするか。 」

「聖人は、易経を以て“天道=宇宙の法則”を明らかにして、民に寄り添い、苦楽を共にし、その生活のために活かす易経の方法を示した。それが筮竹を使用して未来を、易神の神意を表す筮法である。それゆえに筮を取り扱う聖人は、斎戒沐浴し、その神意を問うにあたっては身を清め、心を清めその表された卦を押し戴いて、その神意を明らかにするのである。」

周易においては「山水蒙」の卦辞の「初筮は告ぐ。再三すれば穢る」にある通り、同じ占的で占いなおすことを戒めます。ただしこれは厳密な意味で「再占の禁忌」を定めたものではなく、卦象より神意を読み解くにあたり、中途半端な意識でそれを用い、読み解くことを戒めたものと解します。

宇宙の法則からすれば、発せられた問いには必ず「答え」を用意します。

しかしその問いが、発する者の意識や見識をはるかに凌駕する問いであったり、その答えを得るにふさわしい徳が備わっていなければ、その答えは難解であり、問いを発した者がそれに氣が付くのは、修養を究め、身を慎んだはるかに時を経てからであったりします。

ここで占者が一番侵してはならない「禁忌」は、出された答えに「疑念」を差し挟むものであると考えます。

導き出した得卦は素直に受け取るもので、そこに人為の疑念や異議を差し挟むことを易占の最大の禁忌とします。

もし出された答えが難解で、その吉凶がわかりにくいのであれば己の未熟さを易神に謝し、再び素直な気持ちを以てその答えを問うのであれば、再占して導き出した卦象に穢れはないのであり、決してそれを禁じるものではないと考えます。

「五行易」においてはその再占を厳しく戒めるものではないし、むしろ前後の得卦の関連より見えてくるものもあります。

中途半端な気持ちで、筮を採ってその卦象を人為と疑念を以て解釈することが最も犯しては成らない禁忌であり、この節「斎戒」とその赤心を促し、疑念を差し挟むことの未熟さを戒めます。

また、日常、身の回りの事象に思いを致さず、自ら考えることをせず易占に頼る、妄信することも良くありません。

君子にとって、占いとは人智を超えた真意を問うものであって、自ら考えることを放棄して占いに頼ったり帰依してはならないのです。

あくまで立占にあたりその前提には人間としての自立が求められています。

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