易経「繋辞下伝」を読み解く23

易経繋辞伝
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易経「繋辞下伝」を読み解く22
易経「繋辞下伝」を読み解く22善積(ぜんつ)まざれば、もって名を成すに足らず。悪(あく)積まざればもって身を滅ぼすに足らず。小人は小善をもって益なしと為して為さざるなり。小悪をもって傷(そこな)うなしと為して去らざるなり。故に悪積みて掩(お...

易経「繋辞下伝」を読み解く23

子曰く、危うきものは、その位に安んずる者なり。亡ぶるものは、その存を保つ者なり。乱るるものは、その治を有(たも)つ者なり。この故に君子は安くして危うきを忘れず、存して亡ぶるを忘れず、治まりて乱るるを忘れず。ここをもって身安くして国家保つべきなり。易に曰く、それ亡びなんそれ亡びなんとて、苞桑に繋(つな)ぐ、と。(繋辞下伝第5章第8節)
「子曰く、危うきものは、その位に安んずる者なり。亡ぶるものは、その存を保つ者なり。乱るるものは、その治を有(たも)つ者なり。この故に君子は安くして危うきを忘れず、存して亡ぶるを忘れず、治まりて乱るるを忘れず。ここをもって身安くして国家保つべきなり。易に曰く、それ亡びなんそれ亡びなんとて、苞桑に繋(つな)ぐ、と。」

「孔子はいう、最も危うい人は、その地位に安心している者である。亡びるものは、いつまでも存続できることに固執するものである。国が乱れるのは、かつて治まっていた状態が、今も尚その状態にあると思い込んでいるからである。だから、君子は安心の中にあっても危うさが孕んでいることを忘れず、永らえても亡びることがあることを忘れず、治まっていても乱れることを忘れない。これにより、その身は安らかにして、また国家は安泰なのである。天地否の卦の五爻にいう、“それ亡びるぞ、それ亡びるぞと、桑のしっかりした根に繋ぐ”とは、このようなことを言うのである」

易経は変化を表すものです。だからそういった変化に抗うことはできないし、むしろその時、その物事に執拗に固執する時や事こそが、その身を危うくします。

「危うきものは、その位に安んずる者なり。亡ぶるものは、その存を保つ者なり。乱るるものは、その治を有(たも)つ者なり。」とは老子が得意とする逆説的な表現です。

人間は地位や名誉に恋々とそれを維持しようとあくせくするが、易の摂理では真逆な方法でこれを維持します。このことを老子はこの様に表現します。

天は長く地は久し。天地の能(よ)く長く且つ久つ所以の者は、其の自ら生じざるを以ってなり、故に能く長く生ず。(老子道徳経第7章)

「天地は永久にあり続けようしよう、存続しようとしないからかえって存在し続けることができる。」

老子はこの句の後にこう続けます。

是を以て聖人は、其の身を後にし而して身が先んじ、其の身を外にして而して身存す。其の無私に以て非ずや、故に能く其私を成す。

「易経に通達した聖人もまた人為を廃して、俺が私がとその行いを誇ることをしないから、衆人の信望を集めいつまでも称えられるのである。」

無為自然(老子)

孔子が引用する天地否の卦は、上卦が乾で上昇志向であり、下卦は坤で下降志向と上下の卦が相反して交わらず閉塞する時です。この卦は二爻、三爻、四爻で“艮(山)”を互体で取って上卦の乾と合わせれば「天山遯」であり、三爻、四爻、五爻で“巽(風)”を互体で取り下卦の坤と合わせれば「風地観」となります。

 

 

 

地天泰の卦もまた同じように互体を取れば、「地沢臨」であり「雷天大壮」を取ることができます。

天地否が孕む「天山遯」は君子はその地位に固執することなく退くことを求め、「風地観」また苦節の中に遭っても光明を見出すという、閉塞の時にあって何処か諦念にも見た安らぎを感じる一方で、地天泰の孕む「地沢臨」はその伸長を阻む者は無く、力強く進みゆく一方で、「雷天大壮」にあってはその行き過ぎを戒めるため、安泰の中に危険が潜んでいます。

小人にあっては大変難解な一節ではありますが、これを為そうとして為さずと、こうあるべきだという浅はかな人為に固執することなく、目の前の事象がなんであるのか?その上で何を今なすべきなのかを考える。

安岡正篤翁が残した「人間の第一義は、何を為すかということではなくて、何であるかということである。」これが孔子が残したこの節を最も端的に表す言葉であると思います。

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