易経「繋辞上伝」を読み解く⑭ 

易経繋辞伝
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易経「繋辞上伝」を読み解く⑭

 

天下の至(し)賾(さく)を言えども悪(にく)む可からざる也。天下の至動を言えども乱る可からざる也。之を擬(なぞら)えて後に言い、之を議(はか)りて後に動き、擬(ぎ)議(ぎ)して以て其の変化を成す。(繋辞上伝第8章第3節)

「 天下の至(し)賾(さく)を言えども悪(にく)む可からざる也。 」

天地の間に行われるあらゆる現象は、全て絶対肯定、「愛」を根本エネルギーとする宇宙の法則の元繰り広げられる現象です。

 

時として甚大な被害をもたらす天災も、人間や自然の中で生を営む存在にとってははなはだ不都合なことではあるけれども、もっと宇宙的な大きな視点でそれをとらえると、「必要」であり「必然」であることが見えてくるはずです。

そこに「善悪」の価値観で判断するのは人間の価値観であって、自然も宇宙の法則も、もっと高い次元にある為、そこまで人間の意識は到達していないし、できないのです。

天地不仁、以万物為芻狗。(老子道徳経第5章)
天地には“仁”という特定の誰かを思いやるような心や概念は存在しない。だから時としてあらゆる物をお祭りの終わった飾り物のように捨ててしまう。

 

老子はここを「天地(自然=宇宙の法則)に仁は無い」と喝破します。ただしここは少し誤解が生じやすい所です。

老子の言わんとしているところは自然に「愛」が無いという意味ではなく、自然も宇宙の法則も「人間のために直接的に働きかけるようなことはしない」という意味において「不仁」であります。

宇宙の法則はその活動において、淡々とそれを行い、特定の存在を保護したり、特定の存在のために何か恩恵を施すというようなことは行いません。

必要に応じ台風も地震といった天災も引き起こすが、そこに人間を始め生を営んでいる生物が存在していたとしても、そういった存在のために活動を躊躇するという意識は働きません。

それは、生を営む人間やその他の生物よりもはるかに高く、あるいははるかに長期的な視野に立たなければその活動の意義や必要性を見出すことはできない自然の所業。ゆえにこの繋辞上伝ではこの一句で「 悪(にく)む可からざる也 」とつづります。

「 天下の至動を言えども乱る可からざる也。 」

易経の64卦象の中で繰り広げられる変化は、各爻の変化における「之卦」においても、その卦象が内包する「互卦」においても、あるいはその卦象の前後を示す「綜卦」においても、あるいはその卦象の真逆にあたる「錯卦」においても、全く無関係ではなくそこに一つの条理(一本の筋道)を見出すことができます。

自然の活動には無駄な事は全くなく、自然が生み出したものに無駄な物は何一つありません。そこに孔子は「 至動」と表現し、一見奔放に見えてもそこに少しも乱れを見出すことはできず、一見無関係に見えてもそこには深い関連性の結びつきが見られ、これを一枚の布地に例えた時、そこに一片のほつれも運針の乱れもないのです。

「 之を擬(なぞら)えて後に言い、之を議(はか)りて後に動き、擬(ぎ)議(ぎ)して以て其の変化を成す。 」

聖人は、易経のつづる宇宙の法則を「感じ」、その法則から次の変化を予測し、その上で行動を起こす、だからあらゆる物事を成就完成させることができる。これを老子の言葉を借りれば

聖人不仁、以百姓為芻狗。(老子道徳経第5章)
陰陽の易の法則に通暁した聖人もまた“仁”者では無い。時として大衆をお祭りの終わった飾り物のように扱うことがある。

であり、そこには何かを成す…という力みや気負いも無く、かといって何も考えず時の赴くまま…という漫然さや粗雑さを感じることはないのです。

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