易経「繋辞上伝」を読み解く19
勞(ろう)謙(けん)す。君子、終有り。吉。子曰く、勞(ろう)すれども伐(ほこ)らず、功有れども徳とせざるは、厚きの至り也。其功を以て人に下る者を語る也。徳は盛んなるを言ひ、禮は恭(うやうや)しきを言ふ。謙とは其の恭しきを致して以て其位を存する者也。(繋辞上伝第8章第5節)
前節を承けついで、「地山謙」は沢風大過の大きな「坎」を、凝縮したかのような解釈となります。
というのも、周易において爻の三にあたる三爻が卦の「成卦主」となる卦は珍しく、一方で三爻の地位にありながら位を出ず、控えめであることをこの「地山謙」の三爻では求められるという、非常に危うくも微妙な立場に置かれています。

ここに孔子自身の経験も踏まえた処世観も含まれていて、「何か真理に到達したり、何かを成し遂げた…と自身で確信したとしてもそれを自ら誇ってならない」…と戒めます。
おそらく孔子自身の人生の大半は、自身が理想とする考え、思想に共感を覚え集う弟子たちは多いのに、その弟子たちが各地に割拠する当時の諸侯やその政治に用いられないことに、半ば歯噛みするような心境にあったと考えます。

しかしそこでこれが「真理」だ…と為政者に突き付け、挫折の日々を味わった自身の半生になぞらえ、ここを以て「自ら誇ってはならぬ」という意を込めて「君子労謙」のこの爻辞を引用したと考えます。
勞(ろう)謙(けん)す。「君子労謙」
この爻辞、大変重い。
俗な例えをするならば、サッカーの日本代表の監督やプロ野球の巨人や阪神の監督の立場に例えるとわかりやすいでしょう。
「勝って当たり前。負けたら監督の責任」
こういう立場です。
周囲からの評価に一喜一憂してはいけない。かといってその評価を無視もできない。
そうした葛藤の中でも、君子は自ら信じる道を貫き続けなければならない。
…その心境と一致を見るのが「地山謙」の三爻であり、孔子は「 功有れども徳とせざるは、厚きの至り也 」と、「生成化育」という偉大な業績を残しながら決してそれを誇示しない自然の摂理、宇宙の法則に自らと、君子の道をなぞらえこれを解説します。
「 其功を以て人に下る者を語る也。徳は盛んなるを言ひ、禮は恭(うやうや)しきを言ふ。謙とは其の恭しきを致して以て其位を存する者也。 」
この節の後半は、自らが正しいと確信する道も、価値観であってもそれを主張し、それを押し付けることがあってはならない。時としては周囲がそれに氣付き、衆人がそれを求めるに至るまで待つことも必要であると説きます。
この一句、孔子以後弟子たちに曲解されてしまったのは、「“ 其位を存す ”…君子は己の信念を貫くためには生命すら厭わず」の考え方であり、これが後の始皇帝の時代の「焚書坑儒」の悲劇につながります。


孔子の真意はそこには無く、時として迫害や生命の危機にある時は、その危機を逃れ、自らの理想を、真理を語るにいたるまで「身を慎み」「時を待つ」ことを否定してはいません。
ゆえに地山謙の外卦「坤」の錯卦は「乾」で、転ずると「天山遯」(この場合外卦は外的要因と考える)となり、この節で「地山謙」を引用した孔子の真意は、「大智」を守り伝えるために、時として表社会から身を引いたとしても、それは決して「己の弱さ」ではない。それも君子の処世術の一つなのだと、「地山謙」の引用を以て力説しているのです。

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