易経「繋辞上伝」を読み解く43

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易経「繋辞上伝」を読み解く43

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繋辞上伝を読み解く 12章第3節易経は行動を束縛する戒律ではなく、必要な行動を促す啓蒙の書です。
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この故に形よりして上なる者、これを道と謂い、形よりして下なる者、これを器(き)と謂う。化してこれを栽(さい)する、これを変と謂い、推(お)してこれを行なう、これを通と謂う。挙げてこれを天下の民に錯(お)く、これを事業と謂う。(繋辞上伝第12章第4節)

周りくどいのですが、繋辞上伝の最後にあたって、再び孔子は易の根本の作用について言及します。

「 この故に形よりして上なる者、これを道と謂い、形よりして下なる者、これを器(き)と謂う。」

「だから、形(=象・陰と陽)が発する前の根本の者(物)を“道”といい、陰陽生じ交じり合うことで生じた者(物)を“器(=卦象)”という。」

原文は「形よりして上なる物…“形而上”」とあり、これが「唯物論」に対極を成す「唯心論=形而上学」の語源となっています。

万物や事象が生じるよりも先にそれを生じさせる「意識(のようなもの)」が存在するという論理です。

これを易経では仮に「太極」と名付け、孔子と老子がこれを「道」と名付ける。

最も老子は道を更に突き詰めそれは「夷(い)=見ようとしても見えない」、「希(き=聞こうとしても聞こえない)」、「微(び=それがなんであるか探ってもとらえようがない)」に分け、それが混然一体となった物が「道紀(どうき=道の紀元)」と解説しますが、人間が「道とはこういうものである」と定義できないところに、「道」の道たるゆえんがあり、ここでは「ただそれがある」という意識にとどめる。これは老子も孔子も同様で、これ以上掘り下げることはしません。

それはただ単に「ある」という認識。

昔夢に老子ができてきたことがあり、「道とは何ぞや?」との私の問いに対し、老子は

「“道”という文字を考えよ。それは、己が首を手に引っ提げて歩いているようなものだ」

という答えを戴きました。

いわば顔のない人間(のようなもの)が、手からその首をぶら下げて闊歩している。胴体と首は離れているから、首は何も話さない、目も閉じていて何も見ていない、表情も表さない。これが老子の言う「 夷 ・ 希・ 微 」なのでしょうか?。

私がそれに対し「おまえは誰だ?」と問うても、それは何も答えない、問いに反応することもなく歩みを止めない、問いを発した私は、ただそれが歩み続けていることを知るだけです。

ただただ何かを発する物、それが意識なのか、何かの集合体なのか、そういった人間の問いには一切答えない、ただわかるのはそれが「ある」という存在のみです。それが道です。

さてその道は、歩きながら何かを放り出す一方で同時に何かを拾い上げる。擬人的な例えではありますが、夢に出てきた老子の答えをヒント読み進めると、その道なる存在は何かを放り出す=陽、何かを拾い上げる=陰をひたすら繰り返しながら歩いている。しかしその周りでは、放り出された陽に陰が反応して何かが生じるようになった。

さてここでロジックの矛盾が生じてしまいました。

道は陰と陽を生じるのではなく、陽を生じる道の周りには既に陰が存在しているということになります。

ここで量子物理学から宇宙を構成する要素を表してみると、宇宙全体を100%とすると、タークエネルギー「暗黒エネルギー」と呼ばれるものが68%を占め、一方でダークマター「暗黒物質」と呼ばれるものが27%、そして残りの5%が原子と言われています。

則ち道が拾っている陰は「暗黒エネルギー」であり、それをもとに陽「暗黒物質」を作り出す。そうして道が放り出した陽「暗黒物質」と道の周りに満ちている陰「暗黒エネルギー」が交じり合うことで生じるもの、これが「原子」であり、これが「 形よりして下なる者=器」です。

したがって太極のように「陰陽」はこの世界の中に50%:50%ではなく、宇宙の構成要素をそのままあてがえば、「陽30:70陰」であり、かりに陽=ポジティブ、陰=ネガティブと定義すれば、「エイブラハムの感情の22段階」でネガティブな感情が占める割合ともほぼ一致します。

エイブラハムの感情の22段階 易照の方位予報 10月13日予報
「エイブラハムの感情の22段階」心が抱く感情はネガティブな感情の方が多い。だからネガティブな情報に心は敏感です石を投げればネガティブに当たる…のような現状認識。これが「自己のリセット」なんだと思います。

則ち「道」とは宇宙に満ちている「陰」に「陽」をあてがう作用であり、太極とはその陰陽が交じり合って万物が生じる様子を表したもの…と解釈する方がしっくりしそうです。

それでは道が陽を生じるより先に存在する「陰」とはなんなのか?

それを老子は「先ほどの“夷 ・ 希・ 微”」と称し、それらを総称して「道紀」と仮に名付けています。

「 化してこれを栽(さい)する、これを変と謂い、推(お)してこれを行なう、これを通と謂う 」

「あらゆるものは変化して留まるところを知らない、しかし聖人は、人間がそれらの万物事象を知る手掛かりとして、その変化しているところを実用に適うように、まるで服飾に適うように布を断ち切るがごとく、その変化を絶妙な瞬間に断ち切る。その切り取られた一編が64卦でありそれらを構成する爻である。だから文王が掛けた言葉、卦辞や爻辞も言うなればその断ち切られた一遍である。一方でその一編を以て、また別の一編とすり合わせることで、切り取られた一編とは全く別の一遍へと誘(いざな)う。これが“通”というものだ」

相当な意訳となります。「変」はもちろん「変化」ではありますが、一方で「編」であると考えます。なぜならば「繋辞上伝第4章第1節」で易経を「布地」に掛けて孔子は解釈を進めています。

易経「繋辞上伝」を読み解く6
易経繋辞上伝を読み解く第4章先天八卦、後天八卦の図の中に隠されたシンボルとは?

この節で「 栽(さい)する 」と表現したことも、おそらくこれに由来します。切り取るという意味であれば、彖伝の「 彖 」の由来となったとされる「断」を用いても良いわけです。

繋辞上伝もここまで読み進めてくると、一文字一文字に込めた孔子の深い思考の末に選んだ一字、実に味わい深い物があります。

「挙げてこれを天下の民に錯(お)く、これを事業と謂う 」

「聖人はこれら易の作用をもって吉凶を天下万民の前に明確な指針を施す、これを事業というのである。」

この句中の「事業」もまた、現代まで実用語として使われる用語の一つ。その語源が易経に在ります。この数千年たっても色あせない珠玉の言葉の多くが易経を源としている。ここにも易経の「不易」という真理の一端を感じさせます。

易経「繋辞上伝」を読み解く44
易経繋辞上伝を読み解く之で完訳です
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