易経「繋辞上伝」を読み解く42

易経繋辞伝
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易経「繋辞上伝」を読み解く41-2
易経繋辞上伝第12章第2節をもう少し深く読み込み、孔子が至った心理に迫ってみます
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易経「繋辞上伝」を読み解く42

乾坤はそれ易の縕(うん)か。乾坤列を成して、易その中に立つ。乾坤毀(やぶ)るれば、もって易を見ることなし。易見るべからざれば、乾坤あるいは息(や)むに幾(ちか)し。(繋辞上伝第12章第3節)

この節は、易経の根本である陰陽、そして陰陽それぞれを象徴する「乾為天」「坤為地」の働きについて述べます。

「 乾坤はそれ易の縕(うん)か。乾坤列を成して、易その中に立つ。 」

「易経の“乾為天”“坤為地”は、いわば易経全体を綿入れに例えるならば、その中に詰まっている綿のようなものだ。その乾為天と坤為地をそれぞれ頭に、64卦は“陽卦”“陰卦”がそれぞれ列をなし、乾坤入り混じって、あらゆる事象を表現する」

易の卦象の最小単位である“爻”は、陰爻(- -)、陽爻(—)で表現されます。この爻を組み合わせることで四象、八卦、64卦象を表現します。これらは陰陽が交雑することで現れるのであり、もしここで陽は陽、陰は陰、あるいはお互いが相手を駆逐、放逐することは破滅を迎えてしまいます。これを乾為天の上爻では「亢龍悔い有り」、坤為地の上爻では「龍野に戦う」と表現します。

季節で例えるならば、全陽の「乾為天」にあたる夏至に至ったとき、あるいは全陰の「坤為地」にあたる冬至に至ったとき、その瞬間に乾為天も、坤為地も役割を終える。乾為天においては、夏至に至ったとき「陰遁期」がはじまりその時はすでに「天風姤」の時が始まっています。

坤為地であるならば冬至に至ったとき「陽遁期」が始まりその時はすでに「地雷復」の時が始まっています。

もしこの時に、夏至の状態が一日を超え一周間、一か月も続けば、この地球はたちまち干からびてしまうでしょうし、反対に冬至が一周間、一か月も続いたのであれば、この地球はたちまち凍てついた土地となり、生の営みがストップしてしまうでしょう。

その、実に微妙な関係、薄い半紙の表裏のように微妙な境が乾為天と坤為地の間を隔てているに過ぎず、両者はいつでも対する相手に働きかけようと、その機会をうかがっているのです。

“陽卦”と“陰卦”とは、卦象を構成する陰爻(- -)、陽爻(—)の数を以てして一方が多い方を、陽爻(—)が多ければ“陽卦”、陰爻(- -)が多ければ“陰卦”と分類しますが、中には陰陽同数の卦もありますので、この分け方は適当ではありません。

むしろその卦象の働きや作用で、ダイナミックに物事を発展生成することを表した卦と、一方で何かの区切り、栄えていたものが衰えていく様子を表した卦の二つに分類し、前者を陽卦、後者を陰卦と分ける方が適当と、これはすでに第3章で読み解いてきた所です。

易経「繋辞上伝を読み解く」5
易経「繋辞上伝」第3章
「 乾坤毀(やぶ)るれば、もって易を見ることなし。 」

「もし、乾が坤を、坤が乾を駆逐するような事態に在っては、そこにもはや易の働きを見ることはできないのである。」

これは 乾為天の上爻では「亢龍悔い有り」、坤為地の上爻では「龍野に戦う」の状態であり、両者は相対する存在でありながら、坤が無ければ乾は存在することができず、それは坤においても同様です。

天以て清く無ければ、将に裂けんことを恐る。地以て寧んずるところ無ければ、将に発することを恐る。神以て霊妙で無ければ、将に歇(欠)けんことを恐る。(老子道徳経39章)

老子もこのように表現し、仮に陽が貪欲であったり、陰が反抗的であった場合、陰陽の微妙なバランスは、この世界はたちまち終焉してしまうことを警告します。

「 易見るべからざれば、乾坤あるいは息(や)むに幾(ちか)し。 」

「(乾坤の交わりを欠き)易経としての変化の法則を見出すことができなくなったのであれば、もはや陰も陽もないのであり、そうなったときもはや天地間に存する我々人間も含め、この世は存在することができないであろう」

易経は聖書や仏教の経のような啓典ではありません。従って「○○してはならない」という戒め、その行動束縛するようなことは書かれていません。

繋辞上伝のこの節においても、乾為天、坤為地の上爻においても、警句として、(陰が陽を凌ぐ、陽が陰を駆逐するような)行為が無意味であることを述べ伝えるに過ぎず、決してその行為を厳しく制限するものではありません。

これは64卦その卦においても同様で、そこには「吉凶」の表現はあってもその行為そのものを制限束縛するものではありません。その卦を得た者がそこから何を感じ、その上でどのように行動するか?その選択権はその卦を得た者にゆだねられています。

「陰か陽か?」「吉か凶か?」と易経は二元論で成り立っていますが、そこに「善か悪か?」の概念はありません。

そこに「陰=衰退=凶=悪」「陽=発展=吉=善」と判断してしまうのは人間の錯覚であって、正しい易経の用い方ではありません。

善か悪かの価値観で行動してしまうと、そこにお互いが互いの相手を駆逐、放逐するという破滅の作用が生じてしまいます。善悪の価値観は非常に近視的、短絡的な価値観であって、その価値観で行動した結果が自然災害のたびに繰り返される人工造物のもたらす害です。

原発の問題にせよ、山野を覆うメガソーラーにせよ、近視的な短絡的な善を追求した結果です。

もっと長い目、上空を飛ぶような鳥の視点に立った時、善の背後に隠れる悪を見出す…いや、それ以上にもっと陰陽の深いかかわりについて、立体的にまたそれを時空的にとらえる。ここは言葉では語りつくせないところであり、それを感じ推して知るということが、易経を活かすということです。

易経「繋辞上伝」を読み解く43
易経繋辞上伝兌12章 いよいよ最後のまとめに入ってきます
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