易経「繋辞下伝」を読み解く16

易経繋辞伝
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易経「繋辞下伝」を読み解く15
繋辞下伝を読み解く 第4章

易経「繋辞下伝」を読み解く16

易に曰く、憧憧(しょうしょう)として往来すれば、朋(とも)爾(なんじ)の思いに従う、と。子曰く、天下何をか思い何をか慮(おもんぱか)らん。天下帰(き)を同じくして塗(みち)を殊にし、致を一にして慮(りょ)を百にす。天下何をか思い何をか慮らん。(繋辞下伝第5章第1節)

この章より、再び孔子は文章としての易経を解説します。

「 易に曰く、憧憧(しょうしょう)として往来すれば、朋(とも)爾(なんじ)の思いに従う、と。子曰く、天下何をか思い何をか慮(おもんぱか)らん。天下帰(き)を同じくして塗(みち)を殊にし、致を一にして慮(りょ)を百にす。天下何をか思い何をか慮らん。 」

「易経の“沢山咸”の四爻に“ 憧憧(しょうしょう)として往来すれば、朋(とも)爾(なんじ)の思いに従う (落ち着かずにおろおろしているようでは類は友を呼び周囲の友人まで落ち着きを亡くしてしまう)”とある。これは何を意味するのであろうか?」

私(孔子)はこう思う、

「天下について何を思い煩い、悩みを深める必要があろうか。天下の物事はその目指す方向性は同じであるが、その過程である『道』を異にする。また天下の物事が行き着くところは全て同じであるが、人間たちが勝手な価値観を以て、さまざまに思いを巡らせて苦慮しているにすぎないのだ。天下は人間の思惑とは別に縛られることなく巡っている。人間は、ただただ自然に任せればよいのであると」

この章にある「子曰く」も、孔子の自問自答です。繋辞下伝は孔子作であるから、本来はこの敬称は不要であるが、深い思索の上に至った結論を、自らの問いに答える形で説き表します。

「 天下帰(き)を同じくして塗(みち)を殊にし、致を一にして慮(りょ)を百にす 」は陰陽の作用のことで、「 天下帰(き)を同じくして塗(みち)を殊にし 」は、その陽の氣が発する所の根源は同じであるが、その発する陽の氣はその方向性、そのスピード共に様々です。

例えるならば、変幻自在の球を投げるピッチャーです。時に剛速球を投げるかと思えば、カーブやシュート七色の変化球を自在に操ります。

故に陽を表すに「円相」をもってする。円相はその自在性を象徴し、易経の乾為天の卦辞にある「大和保合」を象徴するのです。

一方で「 致を一にして慮(りょ)を百にす 」とは陰の働きであり、陽の氣を確実に受け止める徳を「致」の一字で表します。陽の氣を受けて陰が生み出す万物の形態はさまざまであるけれども、その作用は単純明快で少しもその法則性から逸脱することは無い。ゆえに陰を表すに「方(四角)」をもってこれを象徴する。例えるならば陽の放つあらゆる球を決して後ろの逸らすことの無い…最適なキャッチャーで坤為地の二爻の爻辞にある「直方大」がその徳を端的に表します。

一方でこの句には、易の表す二つの作用、陰陽の作用は一見その性格を全く正反対にし、易経ではこの働きを仮に「吉凶」で表すが、往々にして人間は、「吉」を得ては一喜し、「凶」を得ては一憂します。

しかしこれまで繋辞上伝でも読み解いてきたように、陽=生成化育、陰=還元再生であるところのその作用の行き着く先は、「無限の生の循環」ですから、あれこれ思い悩む必要はなく、ただただ自然の流れに任せればよい。

易経を書物として読むにあたり、念頭に置いておくべき概念を、孔子はこの章の冒頭にて提示します。非常に格調高く、かつ重要な一節です。

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