易経 繋辞下伝を読み解く34

易経繋辞伝
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易経「繋辞下伝」を読み解く33
繋辞下伝第7章第3節

易経 繋辞下伝を読み解く34

履はもって行ないを和す。謙はもって礼を制す。復はもってみずから知る。恒はもって徳を一にす。損はもって害に遠ざかる。益はもって利を興す。困はもって怨(うら)みを寡(すくな)くす。井はもって義を弁ず。巽はもって権を行なう。(繋辞下伝第7章第4節)
「履はもって行ないを和す。謙はもって礼を制す。復はもってみずから知る。恒はもって徳を一にす。損はもって害に遠ざかる。益はもって利を興す。困はもって怨みを寡くす。井はもって義を弁ず。巽はもって権を行なう。」

「天沢履の卦においては、礼節ある振る舞いや行いから秩序が生み出されると説く。

地山謙の卦においては、礼節の基には謙譲の徳があると説く。

地雷復の卦においては、過ちや小悪を悔い改めて正道に戻ることで初めて徳の本質に復(帰)ることが出来ると説く。

雷風恒の卦においては、その過ちを悔いては正道に戻ることが徳の本質を強め、徳行一致を確固たるものとすることを説くのである。

山沢損の卦においては、自身の欲望を減らすことが、かえって他者からのあらぬ怨みや迫害から遠ざかることを説くのである。

風雷益の卦においては、利よりも徳を積み増すことがかえって利につながることを説くのである。

沢水困の卦においては、例え困難に遭遇し、困窮するような時に遭っても徳を本とし天を恨んだり他者にその責任を転嫁することなければ、人から恨まれることが少なくなることを説くのである。

水風井の卦においては、不動の井戸の徳を以て、心を穏やかにして何事にも動じず、その徳を養うことを専らとすれば、正しい思慮、思考を以て物事の正邪善悪を正しく分別することが出来ることを説くのである。

巽為風の卦においては、風の徳の様に巽順、下座に徹すれば世の中の事象の軽重を即座に判断し、形式や手段方法にこだわることなく柔軟に物事に対処できることを説くのである。」 

君子、困難に当たっては…?

前節を承け、君子が困難、苦難、憂患の道をいかに避け、あるいは困難に当たってはどのように対処すべきかを引用する9つの卦を例に詳説します。

すでに第2節でも述べてきた所でありますが、天沢履の説く礼節というものは、しなければならないという規範ではなく、守らなければならない規則ではないけれども、それをわきまえていれば他者と無用な軋轢を生じないのです。

地山謙においては、その礼節を守るという道徳心は謙譲の意識より生じる。俺が、私が…と言う自我を抑制することが、諸悪に走ろうとする己を抑制する理性を養い、社会に出て多くの人と交わったり、組織に属する時の処世術の基礎となります。

地雷復においては、自我が芽生えまた、家族以外の人との交わる機会が多くなれななるほど、自己愛から、また周囲からの誘いに乗じ「これぐらいならば…」という規を超えてしまう。しかし一たびその規を超えてしまうと、慢心からさらにその規を広げ、己が持つ良心、正道から次第に遠ざかってしまうことを戒めています。

雷風恒においては、自身の履み行う行為、行動に確固たる信念を貫けば、ますますその徳というものはハッキリと、生きる上での指標としてその人の歩む道に迷うことなく導くことを説きます、

山沢損においては、社会に出、活躍する機会が増えれば増えるほど、様々な誘惑、自己愛と現実へのギャップに悩み苦しむことがあるが、そこに節度、節制を求め時に利に浴するような好機があっても、それを貪ることをしなければ、他者に恨みや妬みを買うことなく無用な災いを避け得ることを説きます。

風雷益においては、私よりも公。幸田露伴が『幸福論』で述べるところの「植福」、『中庸』に述べるところの「積善家の家には余慶有り」、老子が述べるところの「その身(み)を後にして而(しか)も身は先(さき)んじ」であれば、かえってその身に利をもたらすことを説きます。

そうであっても、時として時代や環境が困難として君子の身に降りかかることがあります。沢水困の卦の処し方は孟子がこの様に述べています。

「天のまさに大任をこの人に降くださんとするや、必ずまずその心志(しんし)を苦しめ、その筋骨を労し、その体膚(たいふ)を餓えしめ、その身を空乏(くうぼう)にし、行いにはその為すところを仏乱(ふつらん)す。」(孟子)

もし君子の身であって困窮にくるしむ事があっても、その咎を天や時代、環境、または自分の周囲に求めず泰然としているのであれば、誰からも非難されることなくむしろ周囲から衆望を集めると説きます。

水風井においては、沢水困の時を経たのであればその心は不動であり、いかなる環境にあっても君子は他者を思い、その知徳を施すことができようと説きます。

天地の間に並び立つ”人間”たれ

巽為風において、君子は誇らず、奢らず、喜怒哀楽を超越したところで成すべきことを行うとする。ここに至る境地を老子は以下の様に評します。

「怨みに報いるに徳を以ってす」(老子道徳経第63章)

一方で孔子はこれをこのように評します。

或(あ)るひと曰(いわ)く、”徳を以(もっ)て怨(うら)みに報ゆれば何如(いかん)”と。子(し)曰く、”何を以てか徳に報いん。直(ちょく)を以て怨みに報い、徳を以て徳に報いよ”と。(論語憲問第14-36)

老子も、孔子も言わんとしているところは同じです。

老子の言う“ 徳 と”は、天地が持つような“徳”であり、善悪や損得を超えた人為の範疇から超えた高い“徳”です。

一方で孔子は“直”と“徳”を使い分けます。孔子の言う所の“徳”とは“仁”であり、老子の言う所の徳とは若干狭義です。老子の時は天徳、地徳、人徳に区別を設けずそれらを総称して“徳”とする。一方で、孔子は天徳、地徳と並び立つ人徳の道を模索しました。

これは易経を学び、これを活かすことに大いなる時を捧げ、そこより儒教の基礎根本である「大学」の道に至った孔子の思想の結実の集成です。

孔子の説く”徳”とは、天と地の間に並び立つ人間の果たすべき”徳”。

これは天の徳、地の徳と同様に人間もまた、そこに善悪や損得を排し、人間としての役割を果たす事。これはすなわち天と地の徳を応用し、環境を変える、この世界の生きとし生けるものすべてが等しく、その発展生成の恩恵を受けられるよう、天地間に広がるこの世界を、より良く改善する事にあります。

孔子の説く”仁”とは端的に表せば他者への思いやりです。渇水にあえぐ植物を見ればそこに水路をひいて、緑豊かな大地とする。

飢えに苦しむ動物を見ては、囲い養うように、この世界に生きる全ての動植物がより良い環境下に生育できるように、その施しを行うことが出来るのは人間だけです。これが仁に根差した人間の徳、”人徳”です。

「仁」は「人」と「二」でなります。「二」とは天と地のことであり、その間に立つ人間の成すべきこと、その納める徳を「仁」とした孔子の深い洞察力と、その熱い思いは止むことがない風の様にあまねく、等しく後代まで伝えていくべき先哲の教えと感じます。

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