易経「繋辞下伝」を読み解く33

易経繋辞伝
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易経「繋辞下伝」を読み解く32
繋辞下伝第7章第2節

易経「繋辞下伝」を読み解く33

履は和して至る。謙は尊にして光る。復は小にして物に弁(わか)つ。恒は雑にして厭(いと)わず。損は先に難(かた)くして後には易し。益は長裕(ちょうゆう)して設(もう)けず。困は窮して通ず。井はその所に居りて遷る。巽は称(はか)りて隠(かく)る。(「繋辞下伝」第7章第3節)
「 履は和して至る。謙は尊にして光る。復は小にして物に弁(わか)つ。恒は雑にして厭(いと)わず。損は先に難(かた)くして後には易し。益は長裕(ちょうゆう)して設(もう)けず。困は窮して通ず。井はその所に居りて遷る。巽は称(はか)りて隠(かく)る。 」

「天沢履の卦においては礼を正しく履み行う事である。

礼が保たれていれば、人間関係の上下等、その秩序が正しく保たれるので、皆和悦、和合して隅々まで行き渡るのである。

地山謙の卦においては謙遜してへりくだることで、その人の徳はますます光り輝くのである。

地雷復の卦においては一陽来復。その一陽はほんのかすかな小さな兆しではあるが、物事の善悪を正しく分別するので、小さくとも明確な徳を抱いている様子である。

雷風恒の卦においては、周囲がいかにざわつき混乱していても氣にすることなく、超然と守るべき正しい道を墨守している様子である。

山沢損の卦においては、徳を積み修めるに不要な物、私利私欲を摘み減らす行為、行動である。始めは困難を伴うが、やがて自我を超越して克服できれば、すらすらと通達するのである。

風雷益の卦においては、損卦において超越した自我より、積み増すべき徳をいよいよ盛んにすることである。すでに備わっている徳を増やし豊かにすることであるから、この境地に至ればことさらに人為に頼る必要はないのである。

沢水困の卦においてはたとえその身に艱難辛苦が降りかかろうとも、その徳はいよいよ光輝くときであるから、例え先行きが見通せない閉塞の時に遭っても憂える必要はないのである。

水風井の卦においては、井戸はその場所より動かすことはできないが、そこより湧き出す水は様々な場所に運ばれて、その恩恵をあまねく施すのであるから、徳を積んだ君子であればその場所に居るだけで自然とその徳が周囲に広まっていくことを表すのである。

巽為風の卦においては、風の象であるから、その徳を広めるに何ら象や方法にこだわることなく、自然に柔軟に、しかも方位や方向を定めず、かつその徳を広めるにあたり何か痕跡を残すことがない。易経の摂理に最も近いといえるのである」

易経が示す目標とすべき生き方、歩み方

原文はわずか三行余りでありますが、これを解釈するには実に言葉を尽くさないと小人には理解しがたい内容です。

前節を承けて「履・謙・復・恒・損・益・困・井・巽」を修徳の手順段階を説きます。

天沢履においては、理屈を抜きに行動や規範をその身に習得する。体で覚えることです。教育者として名高い森信三先生は、子どものしつけは歳に「つ」が付く間に終えなさい…と説いておられます。

1歳から9歳まではその歳を「ひとつ、ふたつ…ここのつ」と数えられるので、子どもは親のしつけ言いつけに従います。しかし10歳にもなると自我が芽生えてきて次第に大家の言うことを聴かなくなる。人生において天沢履の段階は1歳から9歳のころまでを表します。

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地山謙いおいては自我が芽生え、一方で親に甘える一方、親より賞賛や認めてもらいたい承認欲求が強まる時期。一方で欲望を制し我慢を覚える時期でもあります。また次の地雷復においては、いよいよ家族以外との関りが深くなってくる時期でもあり、交友筋から道徳に反する悪い誘いを受けることも多くなります。

この段階において、小悪を許さず小さくとも善徳を積み上げること、その心根の方向性をしっかりと定める段階です。

お断りします」のイラスト(男性) | かわいいフリー素材集 いらすとや

幼少のころに培った確固とした善徳、善心があれば年齢を経て更に道徳的に反する誘いや、事象に遭遇しても心が揺らぐことなく、進むべき道を迷うことなく履み進むことが出来る。これが雷風恒の段階であり、年頃は成人を迎えいよいよ社会へと足を踏み出す段階にあります。

社会的な活動や、周囲の人間との関りもより複雑に、思惑が絡み合う社会において、超然とその自我や私利私欲をコントロールできれば、周囲から一目置かれる存在となるでしょう。山沢損の卦においては、そうした自身の欲望のコントロールを習得する段階であり、さらに一歩進めて風雷益においては公益ということに意識を向け、実践する段階にあります。人生に例えるならば働き盛りで熟年に至るころでしょう。

沢水困は男性であれば厄年、40前後。このころ無意識に積み上げてきた悪弊がトラブルや支障事となって身に降りかかるころ。しかし、それまで積み上げてきた徳心が確固たるものであれば、身を亡ぼすような大事には至らず、自身に反省、咎める心があれば、易経の言う所の「悔い亡ぶ」です。

水風井では、様々な経験や苦難困難を経てもそれまで積み重ねてきた徳が足るものであれば多少の事では動じない、不動心を養うことが出来る。熟年を経た人生における練達の士です。

おそらく、小人であってもここまでは年齢を重ねていれば誰でも到達できる段階にある。しかし最後の巽為風の段階は、小人ではなく君子に至らねば、年齢を経ても到達できる段階にありません。

孔子がこの章で詳説する「履・謙・復・恒・損・益・困・井・巽」の9卦。この「9」に妙味があり、9は陽の成数であり、陰陽統合の完成の数でもあります。

氣學でも用いる後天図、氣學の盤において「9」九紫火星の定位である離宮(火)は、自身の本命星が盤をめぐる9年サイクルの締めくくりの宮であり、本命星は離宮(火)に回座する時は、良くも悪くもそれまで過ごしてきた9年間の集大成が現れる年として解釈します。

氣學における離宮(火)の象意は、それまでの家族運、仕事運、財運といった世俗的な物から超越して、名誉や名声を司る宮でもあり、実より名を重んじる象意があります。

この9になぞらえるならば、風雷益から巽為風に至る過程において、益卦までの8つの段階において抱いていた自我を超越した枯淡の境地。老子はこれをこのように表現する。

ここをもって聖人は、その身(み)を後にして而(しか)も身は先(さき)んじ、その身を外にして而も身は存(そん)す。その無私なるをもってに非(あら)ずや。故に能くその私(わたくし)を成す。(老子道徳経第7章)

「”道”を知った聖人はわが身を後回しにしながら周囲に推されてその身は人の前に立ち、わが身を人の外側に置きながら周囲に推されてその身は人の中心にある。これはその人が無私無欲であるからではないだろうか。無私無欲であるからこそ、自分をつらぬいていけるのだ。」

近いですが、孔子の言わんとしているところは更に高い所を指し示します。老子の言葉にはまだそこに「人為」を感じるからです。

孔子の指摘する「巽為風」は、風が風を呼ぶように、その人が風を起こすのではなく既に起きた風が風を呼ぶ、聖人君子が成した功績、遺したものが後代に次々と自然に受け継がれてゆく。その風は聖人君子が残さんと意図したところを遥かに超えて、後から来るものが自然とそれを受け継ぎ、さらに後代に伝えるという循環を見出すからです。

易経の陰陽の働きは、大いなる生の循環であって、陰も陽もその功績をひけらかしたり、誇ることなく淡々とその業を成します。果たして人間がたどり着ける境地かはわからないけれど、それでもそこを目指すべきだと、孔子はその遥か高い頂きへと導いているのです。

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